1991年5月15日発行の専修学院機関誌『願生』88号の座談会の記事を編集。
◎学院の食堂とは
食堂における生活にどういう願いが込められているのか。それは、「食」は「生」「活」の一番の基盤。そこが曖昧なままで学習などできるのか、という問いかけ、である。
◎僧伽(さんが)における「食」の問題
・釈迦の教団における、乞食(こつじき)、布施(ふせ)、遊行(ゆぎょう)の現代における実践である。僧伽とは、信者の布施(財施)を受け、法施を返す。そういう関係性を持った人の集まり。佛道への深い思いをかけている大衆の願いを受け留めながら「食」をいただく。
・「愛楽佛法味 禅三昧為食」(天親の『浄土論』より) 「佛願力に乗ずるを我が命となす」(曇鸞の『浄土論註』より)といった佛語に表されるように、佛の願いを実現するような身体(法身)を養う「食」であり、それは、阿彌陀佛の「本願」を戴くことである。
・「同じ釜の飯を食う」
日本人の伝統の中で、食を共にするという事は、生き死にを共にする深い共同体の原点。
◎「食」も現代では、商品になってしまっている。街へ出れば、グルメブームだとか言って、値段はいくらか、美味しいかどうか、カロリーは、栄養は、それで終わってしまう「食」は、肉体を養うだけの「食」である。一方、いわゆる「おふくろの味」とか「手づくり」とか、そこには「こころ」がこもっている。単なる「モノ」ではなく、「法身(ほっしん)」を養う食となる。そこが現代は薄れてしまっている。真宗寺院の一番の佛事である「報恩講(ほうおんこう)」の際の食事(お斎・おとき)でも、昔はみな手造りだったけれど、今は出来合いを購入して済ましている。
◎食事づくりが僧伽を作り上げる
・共同作業の大切さがある。実際そこで、友達に出遇ったとか、いま一つバラバラだった班が一つになって気持ちが軽くなった、とか。
・食事を作った方の心をいただく。作る側は真心こめてていねいに。があらわれる場が「食堂」。
『典座教訓』(道元)にある三つの心がまえ。喜心・老心・大心、をもって。僧伽の食を作るのは、非常な喜びがある。それが伝わっていく。僧伽における「作務」まさに「行」としての食堂での食事づくり。
・講堂、金堂、本堂と並ぶ、食「堂」だから、寺院の大切な要素の一つ。
◎「為主佛法 為客世間」(蓮如)
「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」(宮澤賢治)
専修学院の食堂を象徴する言葉である。ここは、世間の食堂ではない、僧伽の食堂である。これらの言葉を憶念しての食事作りであり、食べる事なのである。
◎大悲の関係を開く「食」
単なる食、単なるモノではないなあという体験。食事を作る、食べるということが相互の間に「出遇い」を実に厳密にもたらす。大悲とは捨身。自分の存在全体を与える、無縁の大悲。
自分が食べて自分が満腹ではなく、相手に食べて貰って自分が満腹する。それが浄土の食。食をもらった、食を与えた、いのちそのものの一番原初的なこと。相互の出遇の成就。
自分のいのちは、「他」に由って支えられているという讃嘆がある。