―スマホ禁止の規則に思う―
「本願を前提としたコミュニティー」
大谷専修学院卒業生 花園一実
私が学院にいた2004年と今では「ケータイ」の意味合いが全く異なる。今は電話とメール機能だけではなく、SNSの普及により、スマホが自己の第二のアドレス(住所)となっている。例えば現代の若者は電話番号を交換せず、互いに住所も知らないというケースも多い。SNSでつながり、ネット上にコミュニティを持っているからだ。その関係性も学校の友達だけでなく、海外や趣味のつながりなど幅広く、その移り変わりの速度も目まぐるしい。そういうものを全て断ち切って、新しい生活をするというのは、私の時代よりもよほど勇気がいることだろうと思う。
一方で、そういった速すぎるネット上の関係性に疲れている人も多い。周りからの反応や評価を気にすれば、自分の正直な思いを吐露することはできない。目を見ない文字だけのやりとりでは、相手の微妙な心境を思いはかることも難しい。スマホを前提としたコミュニティには、互いの不都合な思いにぶつかり合ったり、相手の機微を察する機会が極端に少ないのだ。だからこそ、そこに自分の居場所を感じられず不安を抱えているのが、現代の問題ではないかと思う。
専修学院は、我々が帰る場所としての「浄土」を、共に念仏する仲間たちに教えられ続けていく、本願を前提としたコミュニティである。互いに「煩悩具足の凡夫」と呼びかけられている信頼によって支えられている関係性は、周りの評価ばかりを気にしていた私に、不思議なほど安心を与えてくれた。私は現代ほど、潜在的に学院のような場所が求められている時代はないのではないかと思う。
[『青草』234号より]