青草びとの会特別会議の報告・佐野学院長インタビュー
青草びとの会特別会議(講世話会議)の報告
2025年1月31日
しんらん交流館にて、 青草びとの会特別会議(講世話会議)を持ちました。
報告します。
2024年12月25日、宗派からの「大谷専修学院の次年度学院生募集中止」の突然の発表がありました。それにより卒業生をはじめ多くの方々は大変驚き「学院が無くなるのではないか」「学院の存在意義である“呼応の教育”の実現に不可欠である“全寮制”や“食事作り”が無くなるのではないか」と動揺が広がっております。
また、様々な情報の拡散や新聞報道等もあり、情報が錯綜し、混乱が広がっている状況となっております。
このようなことから、2025年1月31日にしんらん交流館会議室にて、青草びとの会事務局および、各地の青草講の講世話をされている方を対象に呼びかけ、会場へは17名、オンライン3名、計20名の参加のもと緊急の会議を開催いたしました。
まず、青草びとの会の清会長より、このような事態となり大変に残念であること。再来年度には必ず学生が募集され、学院がこれまで大切にしてきた学びの場が継続されていくことを強く願っていること。また、会議内容等の口外をお断りし、自由な意見交換の場にするとの挨拶がありました。
続いて、事務局長より「次年度学生募集中止に至るまでの経過報告」がありました。
続いて、「現在の学院の様子」について、1月23日に学院長から聞き取った担当者より報告があり、その後、質疑応答の時間となりました。
会議では様々な疑問や意見等があり、見解の統一には程遠いものでありましたが、再来年度には学院が大切にしてきた学びの場が開かれることを望むことで一致し、宗務総長宛に「要望書」の申入れを行うことにいたしました。詳細は控えさせていただきますが、多くの卒業生等が望む「学びの場」が再来年度には再開できるよう、宗務当局には全力で取り組まれることを望むこと。そして、現在、学院におられる学生の学習環境の維持にも全力で取り組んでいただくよう申入れをいたしました。
佐野院長インタビュー(2025年1月23日)
宗門による2025年度の大谷専修学院の学生募集中止の発表を受けて、2025年1月23日、青草びとの会を代表して3人(星野、和田、仲野)が佐野明弘学院長にインタビューをしました。以下その内容をお伝えします。
星野:ご苦労様です。今回お時間作っていただきありがとうございました。1年半前に同じメンバーで伺わせてもらいましたが、今回は最初にお詫びからさせていただきたいと思うんです。前回伺わせていただいた時には「青草びとの会として我々も協力していきたい」と申し上げましたが、現在こういう事態になってしまって、動きが大変遅くなってしまって本当に申し訳なかったと、まずお詫びさせて頂きます。
同窓生学習会青草びとの会として、学院の中に同窓会室まであって、学院作りに関わるという、別な側面から学院作りをお手伝いしていく立場でありながら責任を感じております。
今回お話を聞かせていただきたいと思うんですが、まず次年度の専修学院の学生募集停止という、本山から急な発表が飛び込んできました。青草びとの会に対して事前に何の連絡もなかったのはもう非常に残念なことであり、本山に対してしっかりと言っていかなくちゃならないと思っています。急な発表に、卒業生の中に動揺が広がって、不安とか怒りとか非常に混乱している中で、青草びとの会としてもすぐに対応できなくて大変申し訳なく思っています。また職員や学生の方々も非常に不安、混乱の中にいるんじゃないかなと思っています。
実際に然るべき人から聞いた情報を基にして考えると、次年度は休校やむなしとも思いますが、ただ、それを甘んじて受け入れるんじゃなしに、やっぱり学院というものはこういう願いがあるんだ、こういうことを大事にしている場所なんだということをしっかりと本山に言っていかなくちゃならないと考えています。
学院が本山の都合のいいような形になっていかないようにと心配しています。
今日は、佐野学院長に今の思い、現状をお聞きして、心配されている卒業生の皆さんにお伝えしていくのが、青草びとの会の役割だということで、こうして伺わせて頂きました。
佐野:ここ最近の状況としては、同朋会をいくつか開いていて、そのうち私がかかわっているのは、一つはお昼休みに『大経』をしています。もう一つは、鈴木大拙師の英訳の『教行信証』を輪読しています。そして夜には『観経疏』の学習会を、外の人と一緒にやるという新たな試みをやっていまして、学生たちは結構な人数参加されていて、みんな熱心に学びの方に向かって、またいろんな人と出会うということを学院の場でやってくれています。
もうすぐ修練ですけども、ある学生が院長室に来て「修練に行きたくない」と。「行きたくない」って、「嫌だな」って座っていたら、別の学生が三人くらい入ってきて、「明日から修練ですけれど、なんかひと言ください」と。それで「とにかく修練は一週間しかないから、いろんな修練生、スタッフがいるから、積極的に日程終わってから質問に行ったらいいよと」とアドバイスしました。そしたら「いや、何を聞いたらいいんですか」というので、「それが分かんなかったら、僕は何を聞いたらいいんでしょうと、班担に聞く、次はフリー、そして道場長にも聞きに行くんだぞ」と言うと、「分かりました。なんだ、面白かったね。じゃあ行ってきます」と。横でふてくされている学生に、「さあ行くぞ」とか言うと、「ほんじゃあ行くか」と、そんな感じで、みんなを送り出しました。
今学院のことでもめているというのは、学生たちはおそらく知っていると思います。土日にはスマホを返すので。いろんな問題があるのは知っているけれど、そういうところでぶれないで、今は学びの方に集中しようという感じがあると思います。
二学期の学生の感想を読んでも、一生懸命生き生きと自己に向かい、教えに向かい、そして人に向かっていくという形の、学院の場作りみたいものに、積極的に関わってくれています。学院の中で、自分たちが気に入らない、こんなところ嫌だということに関しても、ちゃんと問題を出してきて、収まりがつかなくなって、全体会をやったりね。まだまだ引きずっているけど、そうやって、ちゃんと生きた学院が今出来てます。うん、そこは大丈夫なんです。
何を差し置いても第一の私の願いは、三学期まで、三学期が終わるまで、彼らの学習の場を守りたい。あらゆる方法をとって、みんなで、彼らのその学習、学びっていうものを大事にしていきたいと。それが、何よりも全てに優先することだと思っているんです。
和田:実は、卒業生の中に、いわゆる信國淳先生、竹中智秀先生、狐野秀存先生を中心に守ってきた歴史を、佐野さんが大きく変えたということを言う人が多いんですよ。なんやって思ってる卒業生も多いわけじゃないですか。でも、学院長就任の依頼があったときに「これは新しくしていきたい」という方針がありましたよね。これまでは、月曜の院長講義は全文筆記でしたが、それを少し変えられた。その辺りの学生の反応はどんな感じなんですか。
佐野:大事なのは、ただ一つ、全員置いてけぼりを作らないことではないかと。
そのことを一緒に考えるには、今のところ、これかなっていう感じで、もうずっと続けて講義をしています。そして、オンライン配信をやめてほしいとお願いしました。オンラインは便利だけど、対話ができないのでやめてほしいと。オンラインをやめてもらってからは、講義の途中でちょっと手休めて、ちょっとこれ考えてみようと。どう思うと聞いてみたり。まだできるようなら始める。
講義が終わってからまた「聞思(もんし)」という時間を作ったんで、今のうちに聞いておきたいことや感想などを言い合う時間も作ったりしています。そういう意味では、新しい全文筆記になっているとは思う。その後、ノート合わせをして、ミーティングをして考究、という形になっています。なるべく有機的(編者:授業がばらばらでなく統一的に進行すること)にと思って。分かんない人は気楽に院長室に聞きに来てくれています。そう考えると昔ながらの形とか、大事なところは変わっていません。変わっていないというより、むしろ、やり取りを昔より多くしているように思います。昔はちょっと恐れ多くて緊張して院長室に行けなかったけど、今は気楽に行けるとか、もう少し敷居が低くなって、その分話し合いがしやすい雰囲気かなと。
また、話し合う時間というものを作ったり、アクティブラーニングの時も島(グループ)になったり、こうしてやったりしてることで話し合う。それから、ミーティングももちろんあるから、話し合ったり言葉を交わしたりする時間を結構増やしているので。ものを言うっていうことが、大分楽になってきたと思うんですよね。真宗学や人間学、特別講義などをエポック(段階)的に関連付けて、有機的に学ぶことにも留意しています。そういう点は、思っていたような形には進んでいると思うんです。だから、なるべく違った意見の人も言えたり、言えなかった人は思いっきり文句を書いて試験の時に出してくれました。
もう徹底的に調べ上げて、授業内容が違うのではないかと。で、その思いです、いいですね。全て、こうだこうだこうだとやり合って。「私は今、大学を休んで来ているんで、いや、仏道を歩み始めてきた」とか言う学生がいたり、本当に生きた学びっていうか、そういうことが出来ていると思います。
宣誓文についてはやっぱり大きな問題だなと思って。それで苦しんだ人は、ちょっと聞いてみると、一人じゃなかったりするわけですよね。それで宣誓文を変えたことについて『願生』に書いたんで、『青草』誌面でも掲載してほしいなと。(●ページ参照)
それに対して、結構批判もあります。「真宗精神を体得し」というのを勝手に変えたと指摘をする卒業生もおられます。ですから、職員会議でもかなり話し合いました。しかし、最終的にはやっぱり方針を決めてかなきゃいけないし、学院長として責任をもってやっていくつもりで、時代的な課題というものを挙げて、真宗の学びの一つの契機として、問題提起ですよ。そのきっかけにしてほしいなって。
少し話が戻りますが、どうして院長講義を「歎異抄講義」から「真宗学」にしたかというと、(2023年に)慶讃法要とかがあって、親鸞聖人を中心に、本も出たりして、(宗門全体として)『教行信証』と言ってきたところもある。『歎異抄』というのは『教行信証』を読む眼だから。眼だから非常に具体的なんですよね、『歎異抄』というのは。それで、『歎異抄』を学んでいくということは、『歎異抄』の眼を通して、親鸞聖人の『教行信証』を見る、ということだと。
そういうことをはっきりさせたいなっていう気持ちがあって「真宗学」にしました。だから、『歎異抄』を捨てたんじゃなくて、『教行信証』を『歎異抄』の眼で見るということです。
「真宗学」では、それを通して親鸞聖人の言葉に触れていく、直接触れていく。そういうことをやっていきたいなと。だから、何にも変わらないと思うんですけどね。
和田:題名が変わったと言っても、本質はぶれていないんですね。私たちはかつての学院の歴史を知っているから、なんで変えたのかというけど、一年しかいない学生にとって、前年と全く変わっても、言葉は悪いですけど、関係ないというか、良いじゃないかと思うのに、なんか卒業生の中には、従来のままがいい、やっぱり慣れたものがいいという思いが強いのかもしれませんね。
佐野:大事なことは、そういうプログラムとか場を通して、自分が親鸞聖人と出遇ったという感動というか感覚があるから、それを、それ自体を奪われているような感覚になっているんじゃないかなって。
少し申し上げたけど、そういうのも超えていってほしいんです。自分の喜びを当てにするんじゃなくて、よりどころは本願です。「出遇った」となると体験になってしまい、やはり二十願に戻ってしまう。なので、そういうところも課題にして、深くみんなで話し合ったりできるところがあるといいなと。「わかった」となると、また「わからない」というコンプレックスも生まれてくるしね。
一度自分が掴んだものは掴んだものでしかないので。そうすると、もうそこに縛られていくだけになっちゃって。それが協議の内容になるもんだから、人に対して「もう少しすればわかるよ」とか、「あなたも経験すればわかるよ」と言ったりするんですよね。そうではなく、「知らない間にお育ての中にあった」という人も多いわけですから。「我が弟子、人の弟子」という問題と同じです。
そこですね。人間が人間に対してやったら、それは呼応ではなくて、教育と言っても、それはエデュケーションと言って、方向付け。進歩させ、何かに作り上げていくことになってしまうので、それは呼応の教育ではないですね。
仲野:「呼応の教育が失われるのでは」という声があるんですけれども、佐野院長にとって、呼応の教育というのはどういうものですか。
佐野:まず学院の初めに、呼応について「真宗学」の最初に、二、三回話すのですが、呼応といったら、如来のこと、如来の呼び声に目覚めていくっていうこと以外にないよね。今言ったように、ドイツ語でも、「エアチーエン」という「教育」って言葉、他にもあるけれども、やっぱり才能を引き延ばす、持っているものを延長させていくっていうような、これが一般に言う「教育」なんですよね。その人の持っている、仏教で言ったら、仏性をみがくとか、その人の性質を修行によって純粋化させていく、こういうようなことで、そこにもひとつの呼応があるわけですよ、先生に対して生徒がそれに応じていくと。
でも、そういう呼応ということを信國先生が僕に言っているわけではなくて、ひたすら人間というものが最終的に、ひどい言葉で言えば、迷って死んでいかなきゃならない。根本的に私たちは自分の存在を実体化してしまって、自分がいると思っていて、その自分が死んでいったり、変化していったり、驚いていったり、いろんな目にあったりするのが、要するに諸行無情とか諸法無我というような法。その法が、自分が実体化してしまっている自分にとっては苦でしかないわけですよね。
そうすると、何か本当に自分が、確かに自分を生きることができるよりどころが欲しいという形で、またよりどころを実体化して、というのがあるんでしょうね。そうすると「覚り」とか、あるいは「絶対的な神さま」とか「浄土」とか、そういうところに向かっていく先がこれも実体化されているので、この場合でも呼応というのがあるんですけれども、やっぱり自分はそっちに向かっていくんだ、こっちがいいんだぞと思っている人が、そうじゃない人を導き、引っ張っていく。これは聖道門のあり方ですよね。先輩が、自分の経験と得たものを持って後輩を導き、引っ張っていくんです。
しかし、そうではなくて、私たちはいかに理想を抱いても、それは妄想である。私たちの現実はプロセス的なものであって、常に縁起でしょう。それを固定化するっていうことが妄想だけど、私たちは非常に自我が強いので、やっぱり確かなものが欲しい。だから生死(迷い)を出られない。だから、満足は必ず消えるけど、満足したという喜びをまた新たに「もっと満足したい、満足したい」と。これが要するに、私たちの欲求自体が流転の原動力になるわけですね。
その流転していくようなプロセス的ないのちを、その時点、その時点とってみると、如来からしてみると、プロセスを人間が見ると結果に至る過程であって、その過程は結果によって証明されるもんだけど、いのちはやっぱり(違う)。「子ども」は「足りない」から「大人」になるわけじゃないですよね。どこを取ってもいのちはいつも(成就している)。種は不十分だから芽を出すわけじゃないし、つぼみはつぼみが嫌だから花が咲くわけじゃないです。いのちとは、いつもそうやってプロセス的なものが、常にそこで成就しているというものがあって。だから私たちがいかに迷いの存在であっても、その迷いの存在を「念仏を申せ」と(呼ぶ)。その迷いの身こそが、あなたの一番大切な生きる場所でしょうと。そういう呼び声に対して、自分の見ていた妄想というような分別とか善悪とか価値観というものが、ある意味で崩れて、念仏する身が生まれると。ここに呼応があるわけですよね。
だから、まず世間の考え方、あるいは世間の波から離れて、やっぱり学院は修練舎だと思っているんですよ。真宗をいつも伝統的に、報恩講だったら本山でも一週間続けて仏法の場が開かれると。お寺でも二泊三日の研修があるとかね。そうやってどこかでギュッと集中して、みんなで集まって、他のことを置いて、生活から離れ、一回離れて聴聞するということをしてきた。日頃もまた、寄り合っては聴聞してきたわけですよね。こういう場所では、一旦ちょっと社会から離れて、やっぱり教えに向き合う。そして、むしろ籠ることによって、現代に向き合うということができるんです。現代に向き合うことができるのは、現代からちょっと離れて、ちょっと身を引かないと、押し流されてしまうんですよ。ちょっと離れて、一緒に考えてみようと。考えたうえで、「わかる」んじゃなくて、「わかんない」んですよ。
前回の「真宗学」でも、みんな「わかんない」というけど、「わかった」ことと「わからないこと」と、どっちが本当に確かだと思うか。「わかった」ということが確かだと思うか。それとも、やっぱり「わからん」という方が確かか。確かじゃないというのは不安定で困るよね。うんうんって言っても、仏教は、人間というのは、「無明煩悩われらがみにみちみちて」(『一念多念文意』)と。「無明の存在」というものが「わからん」と言っているんだと。でも、その「わからん」というところに「わかって」響くのが念仏じゃなくて、「わからん」というところに響いてくる。「わからん」というところに立てられた本願がある。そこに響いてくる。ここに如来の呼び声、そして「それが私だったか」という呼応があって。だから、真宗の一番根本、教義の根本は、回向の宗教なんだと。
『教巻』の最初に、「浄土真宗を案ずるに二種の回向あり」と。ここがもう大事なところなんで。そこが呼応の教育だという。だから、我々が呼応の教育をするんじゃなくて、呼応の教育が行われる場にしなきゃいけないんですよ。はい。先生が生徒を教え込む。とんでもない話で、わかっていたことをお互いに考えて、わからなくなっていく。だから勉強すると、わからなくなるんですよ。勉強しないとわかっちゃうからね。勉強しないでいると「念仏一つや」なんて言うようになるんだと。
和田:そういう話に対して、学生の反応はどうなんですか。ちんぷんかんぷんという感じなんですか。
佐野:だから一学期はちんぷんかんぷん。二学期もさらにちんぷんかんぷん。だけど、質問の内容が変わるわけです。
和田:そんなに歴然と変わりますか。
佐野:変わる変わる。もう三学期になってくるとかなり深く質問が違ってきてますね。
星野:それというのも、一学期、二学期、三学期と生活になるから、世間からどんどんちゃんと距離を持てる訓練がされているのかなと思うんですけど。
佐野:そうですね。それと、難しい言葉はもう気にしないでいいって言ったけど、難しい言葉がわからないのは、仏教が難しいんじゃなくて、こっち側が難しいからだということが、だんだん何となくわかってくる。わかってきて、難しいというのを優しく教えろと思っていたのが、難しいのはこっちだと。質問の質が変わってくるのは、二学期の後半から三学期にかけて。去年もそうだったけど、今年もそうですよね。
そういう形で、呼応の教育という場ですよね。呼応の教育をするなんておこがましいことは言えないし。確か学則に出てくるのも「呼応の場でなければならない」という書き方だったんですけどね。呼応の宗教ということを、安田理深先生の行信の理解というものを持ってきて、呼応ということを言っておられるんだと。
それが専修学院の中心です。今の学則の元は多分、信國先生だと思うんだけど、あれは今も生きていると思う。だから、帰るならいつもあそこだと。ブラザーシステムという言葉が 問題あるかもしれないけど、理念はあそこにある。学院創立理念はあそこにあるんだと。
だから、わからなくなったら、みんなであそこで考えたらいいと思っています。
和田:あと、佐野さんが学院長を受けるときの目玉である「安居」についてお聞きしたいのですが。一昨年は学院で開催されましたが、今回は大谷大学の湖西キャンパスで開催されたのには理由があるのですか?
佐野:谷大の湖西キャンパスを使ったのはキャパの問題です。学院で七十人以上は無理だからね。学生三十人、職員八人、外から二十五人かな。そしてみんなで座談のオンパレード。そして、あれだけ大勢になると、お勤めの声もすごいしね。雰囲気が変わりますね。それから、やっぱり外の人と座談の時間が長いから結構話せる。そうすると外の人もものすごく刺激を受けて帰っていく。そして、学生も刺激を受けていました。
和田:外からの参加者はほとんど学院の卒業生ですか。
佐野:いやいや、違ったよ。今年は、卒業生は少なかったよ。
和田:それは『真宗』で参加者の募集していたのを見て、参加されたのですか。
佐野:『真宗』に載っていたのをみて、まず八十歳の年配の方が一番に電話してきてくれました。
安居を開催する理由には二つあって、一つは学院生が先輩とか実際に社会に出ている人たちと触れ合う、そういう教化学としての意義。教化学だから、学生は自由参加じゃないんです。二つ目は、外の人にとっては「学びの場が自分にとってなかなかない」という人が誰でも参加できるから、有教師、あるいは教師になりたい方に、学びの場として安居を開く。それが宗門の中でも一つの大事な動きになっていくと、「専修学院という場所は自分にとっても大事な場所だ」っていう認識が高まるのかなという思いもあって。今のところ、今年はほぼ成功したなという思いがあります。
和田:最初にお聞きした時には、検定とかを取った人で学びの場がない、そういう人たちに来ていただければ、一緒に学ぶ学生たちにも勉強にもなるし、刺激を受けるしということでしたが。
佐野:横の繋がりが出来て、じゃあ、この連絡先をとか、こういう仕事をとか、帰ってくると、また来年会いたいとか言ってくれる。そういう形で繋がりを作っていく、ネットワークができてくる。そうすると、また色々な形でね、広がっていくことができるかな。キャパのことがあって、そんなに大きなことはできないけれどもね。今年の学院生は、来年安居だけは来ようと、言っていました。
星野:外からそういう人たちが来ると、学院というのは、こういう学生が集まっているよ、こういう雰囲気だよと、学院をある意味広報しているという側面もありますね。
佐野:それで、今春から学院に入りたいって言ってきた人が出てきたんです。だけれど、ごめんなさいってなってしまいました。
佐野:普段は聴講に来ても座談には入れない。それで、今回初めて座談に入って、「すごくよかったんで、こういう学校に入りたい」と。この場を大事にしてくれれば、いっぱいやれることがあるんだから。もっと開いてやっていけば。開くからといって分散するんじゃなくて、やっぱりこもる形態、修練ですよね。修練舎という形態はなんとか保ちたいですよね。
心配なことがいっぱいありますけどね。寮が古くなってきたとか。建て直す力がないとか。特に来年から二割削減でしょ、本山自体が。かえって「潰せ」なんて言われてしまうかもしれないし。
でも、やれることを考えて、やっていくしかない。潰すのはいつでも潰せるから。まずは寮があるうちはなんとか使っていく。無くなったら無くなったで、毎月でも同朋会館に泊まり込んで勉強に座談しに行くとかね。とにかく今はまだ寮が数年は行けるでしょう。
和田:今、卒業生が一番心配しているのは、学院がそういう形でストップがかかるんじゃないか、と。もうそれこそ寮が使えないならもう通いにしようか、とか。全寮制をやめようとか。
佐野:色々方法を考えてみて、もしダメだとしても、さっき言ったみたいな、もう毎月泊まり込みの会を作ってやるとかね。なんとか形を、良さを残して、この学院を続けると。ある程度、籠もるということがないと、話し合いが深まらない。だから、ひょっとしたら毎学期、最後は1週間のミニ研修みたいなものをしたらどうかと。
和田:さっき言われたように、一学期はまだ様子見で、二学期になってきたら、それこそぶつかり合いがあったり、色んな出来事が起きて、さらに深まってくる、それが大切ですよね。だからある意味、言葉は悪いかもしれないけど隔離をしないと。やっぱり隔離して、深めないとダメじゃないかと。
佐野:隔離という言葉は悪いから。でも、ある程度集中できるためには大切で、玄関先では試験勉強できないでしょう。安田先生は「アトリエに入れ」という言い方するけど。「絵を描くのは玄関先では描けんやろ」と。「アトリエで描くやろう」と。それと同じように、向き合うにはそれだけの場所が必要なんです。
星野:卒業生の中には、週末にご自坊(石川県加賀市・光闡坊)に戻られることを問題視する方がいることに対して、どう思われますか。
佐野:学院長を受ける初めからの条件ですから、それは。
星野:大体、私が職員でいた時なんかは、山科と岡崎に学舎が分かれていたんで、竹中先生は月・火・水が山科で、木・金・土は岡崎にいるけど、実際にはその中で自坊に帰られていたり、どっかに法話に行っていたりして、一週間のうち岡崎学舎に一回も来てないなんて普通にざらにあったから、別にそれを問題にしたこともなかったし。
ただ竹中先生は、ここは外せないというときだけは、職員会議でもこれは大事だとなったら、他で受けていても、それを蹴ってでもやってきてくれていましたから。
仲野:正直私も、佐野先生が週末は自坊に帰ると聞いたときに、それで学院長ができるのかと思ったんです。でも、考えてみれば狐野先生もあちこち全国呼ばれて出て行かれていたし。歴代学院長で、通いで来られていた方もいたし。後から色々聞いて、じゃあ、別にいいかって思いましたけど。その辺りのことを知らない卒業生は、「そんなんで大丈夫なのか」という感想を持つ人は、最初私がそう思ったように、おられるんじゃないかな。
星野:僕は前から佐野さんのことを知っているけど、知らない人にとってみれば、自分の子どもを学院に行かせようと思うときに、学院長はどんな人かというのもあるやないですか。
和田:私は言葉悪いですけど、やっぱり学院長というのは広告塔だと思っています。色んなところに行って、この人が学院長なら学院に行かせたいなと。先ほどお聞きしたように、安居に参加してみて、「もっと勉強を深めたいから学院に来よう」と思われた。そういう宣伝じゃないけど、広告塔として大事な役割だと思います。
佐野:週末光闡坊に帰るというのが、学院長を受ける初めからの条件なんです。帰らないと、動物にみんなやられちゃいますから。どうしても週一回は帰らないと。そのうちアライグマがキンを打っているかもしれない。
仲野:最後の質問なんですけど。今後、専修学院がどうなっていくかということを伝えられる範囲で聞かせていただけますか。
佐野:とにかく今は何を差し置いても、今の学生の学習環境を守ってほしいし、守りたいし、そのためにはどんなことを言われても、何があっても、学生の方に向き合っていきたい。今はやっぱり学生を絶対巻き込みたくない。
本当だったら、呼応の教育については、信國先生の最初に書いてある、あそこは今も生きている。そこの受け止めをね、やっぱりもう1回やり直していくっていうことが必要だなと。
星野:青草びとの会として、今の学院の様子を伝えるのが大事だと気がつきました。今後学院がちゃんと残るのかっていうことばかりに気がいってしまって、私たちに抜け落ちていたのは今の学生のことだったということに思い至ったのは最近です。
今、多くの卒業生が心配しているので、今の学院の様子とか学生の雰囲気なんかを取材して、それを伝えて、そして佐野さんからは「とにかく自分は今の学生との生活を大事にして、学びの場を守っていくんだ」という決心を聞いたので、それをきちんと卒業生に伝えていくのが青草びとの会のやるべきことだと思っています。
佐野:今の私の思いは、学生の学習のあり方を邪魔しないというか、学習の場を守ってあげたいということを一番に思っています。だから、参務さんも内局も、そこを一番大事にしてほしい。それが大事にできれば、後のことを生み出すかもしれない。ここがダメになると、あとは潰れるかもしれないと。
星野:本当にそれを心配しています。学院出身ではない人からも、「学院は大谷派にとって最後の砦だから」という言い方をする人も結構多いですからね。
和田:うちの息子も今春、大学を休学させて学院に行かせる予定でした。今回、学院が学生募集停止することになり、「お前どうする」と聞きました。「一年休学する予定だったし、同朋別科にするか」と言うと、二年後、四年生で卒業した時に学院が再開していたら学院に行くということになりました。やはり、生活の中で仏法を学ぶ学院は、大谷派にとって最後の砦と思っていますし。
佐野:生涯聞法の人が生まれてくる、そういうような場所。だから呼応といっても念仏する身が生まれるかどうか。聴聞する身が生まれるか。「往」は誕生だからね。即得往生、誕生するというのは。お育ての中で聞法する身が誕生するのが学院ではないかと。
星野:佐野先生は、今の学生との学びの場を守ろうと必死になっているんだから、本山に対して、学院は本山が運営している学校なんだから、当事者意識を持って、しっかりこの場を守ってもらわなくちゃ困りますと、青草びとの会として提言していこうと思います。
和田:今回は体調が悪い中、長時間にわたりインタビューをさせて頂き有難うございました。多くの卒業生が学院のことを心配しているので、『青草』紙面やホームページで伝えていこうと思っています。