能登の青草びと聞き取り報告・2024年スクーリング報告
今年7月1日・2日、能登半島地震で大きな被害に遭った奥能登に住む青草びと3人におはなしを伺いました。3人の方のインタビューの様子を動画で記録させていただきましたので、青草びとの皆さまに見ていただけたらありがたいです。
また、今年7月、学院で行なわれた「2024年スクーリング」の参加者感想と佐野学院長の講義を掲載してます。あわせてご覧下さい。[青草246号(2024年11月1日発行)より]
能登の青草びとの聞き取り報告
1人目:経塚幸夫さん(2008年)
「能登」という情報誌をつくっておられる輪島市在住のご住職さんです(前号で紹介)。インタビュー当時は金沢のご実家に避難されながら、「能登」の再刊第1号を発行し終えたころでした。5月に地震特集として「能登」を再刊し、これまでで最大の反響があったそうです(内容は動画で確認ください)。9月28日には再刊第2号となる「能登vol56・夏号」を発行されました。地震から8月の能登を取材しておられます。
年間定期購読料は3400円(年4回発行、税・送料込み)。申込みは電子メールkikannoto@po4.nsk.ne.jpで。 公式ホームページは「情報誌 能登」←ココをクリック。
▲動画はこの画像をクリック
2人目:松下春樹さん(1983年)
松下さんは珠洲市・勝楽寺のご住職さんです。松下さんは地震当時、本堂にいてなんとか命は助かりました。庫裏はつぶれてしまい、そちらにいたら「ここにはいなかっただろう」とおっしゃっておられた言葉が印象的でした。
▲動画はこの画像をクリック
3人目:濤(おおなみ)恵周さん(1985年)
濤さんは珠洲市・長覚寺のご住職さんです。濤さんのお寺は2022年6月の地震、2023年5月の地震で液状化が起こった地域にあります。ことし1月1日の地震は、それら以前の地震で壊れた場所を直し、トイレも新調し、「さあ、これから」というときに起こった地震でした。インタビューでの苦渋に満ちた表情が忘れられません。濤さんは地元に残り、近所で行われている足湯ボランティアなどを手伝いながら、お寺の復旧復興の道を模索しています。
▲動画はこの画像をクリック
■聞き取り報告参加者(7人)
清、仲野、三浦、中野、伊勢谷、藤、立山
1日の聞き取りの後は夕方から長田浩昭さん(1983年)が主催する居酒屋風炊きだしを手伝いしました。そのまま残れるメンバーは奥能登ボランティアセンターに宿泊し、2日、3日と居酒屋風炊きだしに参加しました。
奥能登の外浦(日本海側)の集落を中心に炊きだしを行いましたが、どの集落の皆さんも支え合いながら暮らしていることが感じられました。最後は民謡踊りを披露してくださる集落まであり、能登の風土に触れた3日間でした。
とはいえ崩れた家屋の撤去もほとんど進んでいない状況で、復興のための工事に来た職人さんも炊きだしで食事をしていかれました。そこに9月の豪雨災害が重なってしまいました。被災地のごみ撤去が進んでいないため、雨の被害が広がったとも聞きます。珠洲市の仮設住宅は床上浸水の被害がありました。豪雨災害のニュースに接するたびに重苦しい気持ちになります。
それでも能登教区のボランティア委員会は教区のお寺や門徒宅の片付け作業を地道に続けておられます。また遠近各地から奥能登を訪ねて復旧作業や茶話会、居酒屋風炊きだしを地道に続けておられる方々がいます。誠に頭が下がります。また機会を見つけて能登に行きます。
2024年スクーリング報告
・日時:2024年7月10日~12日
・場所:大谷専修学院
・テーマ:「真実に生きよう」
・サブテーマ:「念仏の学校は念仏に育てられ」
2024年スクーリング報告
和田英昭
この数年はコロナ禍のため、ホテル泊り、食事は弁当の1泊2日の慌ただしい日程で、交流ができないのが正直なところでした。今年は、朝昼は各自に任せ、夕食は分担して食事つくりという2泊3日のゆったりとした日程で開催させていただきました。泊りも学舎で寝泊まりして、空いた時間に参加者がそれぞれ交流出来たり、有意義な日程でした。何かと時間に追われる日々を過ごしている中で、改めて人と出会うことの大切さを実感したスクーリングでした。
スクーリングに参加してくださった方に感想文をお願いしました。以下3人の方の感想を紹介します。
「2024年スクーリング」に参加して
2008年度卒 房常(在学時は源口)晶(岡山県)
私が初めて青草のスクーリングに参加したのは、かつて学院の本科生だった16年前の夏である。そして、その3日間において甚だ衝撃的だったのは、毎回の座談会の濃厚さと熱さだった。特に、学院OBの初老の先輩方がこぞって「専修学院とはなんだったのか」について語られた時の底抜けの明るさは忘れられない。
…われわれにとっての学院は、生活の中で死にかけていた命が息を吹き返す、失いかけてしまう生命感覚をとり戻す稀有な場所。歩まずにおれない以上ずっと学生なんだ。よって学院に卒業はない…云々。
「学院に卒業はない」という言葉が耳の底に残っていた。気が付くのはもう少し後だったのだが、その言葉は「帰る場所がある」と私には聞こえたのだった。
時は流れて、岡崎学舎はその役割を終え、山科の新学舎は冷暖房完備かつトイレにいたってはホテルか?と見間違う程に整った。当然それは私の知る学院ではない。しかし、16年ぶりに参加が叶ったこの度のスクーリングを経てあらためて思ったのは、どれほど学舎の様相が変わっても、集う面々が違っても、専修学院は私にとって「三塗の黒闇を照らす光」のままだったということである。
こうして感想文を書きながら脳裏に浮かぶのは、宮沢賢治の暖簾、白いゴム長靴、サイズの合わない給食白衣と給食帽、紐のほつれた厚手ビニールの長エプロン、16年前にはなかったディスポ手袋と手指消毒剤。新しい友のお顔。そして、一瞬にして時間軸が変わったのかとハッとするほど静かに滑り出す、穏やかかつ厳かに響く新学長の三帰依文。
恩田先生、そして和泉寮のみなさんお元気ですか。みなさんにとても会いたくなりました。
スクーリング感想文
1996年度卒 足利栄子(福岡県)
2022年からスクーリングに参加しています。昨年までは新型コロナウイルス感染予防としてホテルに宿泊し、1泊2日でのスクーリングでした。講義を受け、座談会では率直な意見が飛び交い刺激的でしたが、物足りなさを感じていました。
今年は2泊3日になり、本来の形に戻りました。学舎に宿泊し、久しぶりに銭湯へ行きました。食堂で夕食作りの様子を見ていると懐かしい思いがしました。今回、「聞法・学習・生活」を思い起こしながらスクーリングに参加しました。短期間ですが生活を通して、それまでは新しい学舎に馴染めずにいましたが、親しみを感じるようになりました。それは参加していた在院生の存在も大きかったと思います。また各々の現場での葛藤や願いを聞かせていただいたことや能登地震の現状報告もあり、貴重なご縁をいただきました。
今回のテーマは「真実に生きよう|念仏の学校は念仏に育てられ」でした。学院生活では喜びや感動もありましたが、人に沢山迷惑をかけましたし、自責の念、恥ずかしさ、様々な感情が浮かんできます。お育ての中にいながら私は自我ばかり出していました。それでも今思えることは確かに専修学院でお育てにあずかったと改めてそう感じたスクーリングでした。
青草スクーリングを通して
酒井大樹
2021年に学院修了ぶりに、山科学舎へと身を運ばせて頂いた。山科の街並みに懐かしさを感じつつ、久しぶりにお会いする方々や初対面の方々と共に、青草スクーリングは始まった。
まず初めに、今回のテーマでもある「真実に生きよう」(信國淳)を輪読した。文章の中で、「自己を僧侶として盲目的に肯定しようとする」ことに対する問題提起が為されていた。私は僧侶として生きていくために必要な知識や技術を学びに学院に入学したが、特に修練では今まで身につけてきた知識や経験が崩れていくような経験をした。その時の私が僧侶であることを盲目的に肯定しようとしていたことを知らされたのであった。お葬儀では、僧侶は先生と呼ばれ、葬儀社さんがカバンを持とうとしてくださるのだが、それについて違和感をおぼえていることを座談でお話させて頂いた。信國先生が問題提起していることに繋がってくるのではないだろうか。その問いを持ち続けていこうと思う。
また、佐野院長から「念仏に育てられ」について、大雪の中でも聴聞に来られる北陸の門徒さんのお話を聞かせて頂いた。門徒さんが何かを学び、掴もうとするのでもなく、教えを聞かねばならない身が決定されていると、そういう身を頂かれていると。その門徒さんの姿勢から「お育てにあずかる」ということを学ばれたそうだ。私は研修会に行くと、自分が経験値を得ているような感覚がどこかにあり、それを握っている私がいる。しかし、実は学びの場が学ぼう学ぼうと思っていた私を包み込むように、お育てくださっていたことに気づかせてくれる。そのような聞法の場を大切にして、自らも身を運び続けていこうと思う。
●2024年度スクーリング講義
佐野 明弘院長
お育てにあずかる
こんにちは。昨日から「真実に生きよう」と「念仏の学校は念仏に育てられ」というテーマをいただいております。昨日も申し上げたことですけれども、また、足利さんが感話で言ってくださったんですけれども、「お育てにあずかる」という言葉が、今、私にとって非常に大事な言葉としてございます。「学び」ということを考えますと、自分が新たな知識や技術を習得して、そして自分の目的に合うような自分の進むべき方向性に向けて努力していく、そういうところに確かに学びというものがありますが、お育てにあずかるという言葉は、そういった学びとは違って、ひとつの気づきですね。
気づいてみると、お育ての中にあったという、ひとつの身の在り様の気づきですね。気づいてみると、お育ての中にあったなぁということですね。その場合には、気づきのところにお育てくださったご恩の歴史や世界があるわけです。お育てにあずかるという機のところには、お育てくださるものがある。そういうひとつの「場」なんですね。あるいは歴史や世界として開かれてくる「関係」と言ってもいいです。「関係」という「場」。こういうことが、実は真宗のお育ての非常に大事な部分を構成しているわけです。
自分をどこかで受け止めたい
昨日も申し上げたように、私たちにとって不都合なことに出くわす時には、「自分」というものを強く意識します。その状態の「自分」を受け止めていく、そのことが難しいということがありますね。みんながどう思われるかわかりませんけど、こういうことがあったんです。
私の友人がお葬式に、お坊さんですけど、お葬式に行きました。そこに高校生くらいの娘さんがいた。お父さんとお母さんがいて、そのお母さんが病で亡くなったんですね。高校生くらいですから、母親も若いですしお父さんも若いんですけども、そういうときに、お父さんの嘆きようがすごかったんですね。非常に嘆いて、すごく取り乱して泣いている。それで娘さんのほうはそう泣いてはいないんですけども、なんとかお葬式を終えて火葬場に行ったときに、娘さんが怒っていたそうなんです。ずっとお父さんがわあわあ人目も憚らずに泣き叫んでいるので、その娘がお父さんに向かって、「お父さんはお母さんが死んで、お母さんのことを悲しんでいるんじゃないんだ。お父さんはお母さんが死んじゃって、自分が寂しくて泣いているんだ。自分の自分をどこかで受け止めたいことで泣いているじゃないか」と言ったんです。お父さんはすごくびっくりしたんだそうです。
どう思いますか、みなさん、これ。大切な人が亡くなるときに、大切な人が亡くなったことを本当に悲しんでいるのか、自分の大切な人がいなくなった自分が寂しくて泣いているのか。そう言われると、どうでしょうね。私はよくわからないけど、寂しくて泣いているような気がして仕方がないです。逝ってほしくない。自分にとって、どうしても逝ってほしくないものに死なれた、その悲しみを泣いているという…。あながち間違ってはいないんじゃないかなと思ったんですよ。私はちょっとそういうふうに感じたんですね。どうしても死んでほしくない人に死なれてしまった、そういった苦悩。憂愁を抱えている苦悩。憂愁を抱えてしまう自分というものをどう認めていったらいいのか。
己が拠りどころとしているものを確かめてみると、その多くが、人間関係や、あるいは能力です。健康もそのひとつだし、生活力も能力ですね。それから積み上げた経験や、知識や、経験の記憶などです。それらはしかし、さまざまなかたちで失われていく、自分が拠りどころとしていたものが失われていくという不安を抱えて、私たちは生きていますね。ですから、なんとかその自分というものをどこかで本当に受け止めたい、と。「生きた」ということが、確かに「生きた」ということになり得るような人生を送りたい。そう思うのでしょう。
教えを聞く身をいただいている
そういう中で、お育てにあずかるという言葉が非常に大事な言葉に感じられます。私が北陸に行ったときに、初めてこの言葉を聞きました。そこには、お育てくださる方と、それからお育てをいただく身と、それを実際に具現しておられる方々、そしてそういった場がありました。
親鸞聖人は「自分は比叡山で20年間お育てにあずかったのだろうか」と、「この身の在り様というものを知らされたのだろうか」と、「むしろお育ての中にありながらお育てにあずかることができなんだ」と。こういうことを表白しておられるわけですね。
こういう「無駄だったんだろうか」という言い方をすると、私たちは抵抗を感じるんですね。「無駄であるという人生はひとつもない」ということを聞いていますから。現実は無駄であるとか無駄ではないとかいうようなことでは押さえられないこともあるわけです。
親鸞聖人は、比叡山でやっていた自分の修行あるいは目指していたもの、自分の身の在り様というものは、徹底的に否定しています。ただし、その否定が同時に「お育ての中だった」と、こういう言い方になってくるんですね。「そのことがあったおかげで」とか、決して言いません。「苦労したおかげで」とか、けっして仰っていない。「かえって如来にご苦労かけた」とこういう言い方になっていくんですね。「自分が努力した、そういうことで行き詰まった、そういうことのおかげで真宗にご縁をいただいた」という言い方をされない。ここが大事なんです。
北陸の冬は雪が積もります。特に昔はたくさん降りました。そういう北陸で聞法会があると、人が来るんですね、その雪の中で。本当にびっくりしました。私は静岡県出身なので。私一人だけが今日は誰も来ないだろうと思っていたら、来るんですよ。雪だるまのようになって来るんですよ。びっくりしました。こんな日に来るんだって。もう一つびっくりしたのは、そんなに命懸けで来て、どれ程熱心に聞いてくれるのかと思ったら、みんな寝ちゃうんですよ。寝てしまうんです。聞いてくれるのかと思ったら寝ている。それでひょっと起きると、ナンマンダブツと称えている。座布団を3枚使うんですよね、おばあちゃんは。お尻の下と伸ばした膝の下と、膝の上にもう一枚敷いて、その敷いた上に肘を乗せて、こうやって聞くんです。もう腰も曲がっていますからね。それで、頷いたり首振ったりしているんですけど、寝ちゃう。なんだ?と思いました。あれだけ命懸けで来て、命懸けで聞くものかと思ったら、みんな寝てしまう。そして、帰っていくんです。なんだろうなと考えてしまいました。それでわかったのが、教えを聞くという身をいただいている。身が決定しているんですよね。教えを聞く身をいただいている。すごいなと思いましたね。
何を聞いたかわからねど
つまり面白い話があるから来たわけじゃないんですよね。いい話だから来たんじゃない。仏法を聞くというものがいいものだと思って来たのでもない。真宗がいい教えだから来たのでもないんですよ。聞かねばならないから、そういう身だから来た。聞かねばならない身だから来たんですね。その来たところがお寺なんですね。こういう身というものが、いつの間にか気づくとお育ていただいている身が、ここにある。ひとつの身の誕生ということがあるわけです。
誕生というのは、生まれるということです。この身が生まれる。どうやって生まれたのかはわからないけど、私たちだってどうやって生まれたかなんて知らんでしょう。「お母さんから生まれたんだ」っていうけど、そんなのは後から聞いた話です。本当はどうだかわからない。まあそんなことはないけど、知っている人はいないですよね。いますか、この中に。自分がどうやって生まれたのか、ちゃんと覚えていますという人はいないでしょう。だから、生まれているといっても私たちにとっては、気づいたら生まれていたんですね。
聞法もそうです。気づいたら、お育てにあずかっていたということがあります。それでね、それじゃあ聞いて、何して帰っていくのか。何をしているのだろう、聞いて。聞いて寝ちゃって、起きて帰って行くんですけど。みなさんの中でお寺を預かっておられる方は、お寺を守りされている方は、よく御門徒さんが言われるでしょう。「何年聞いてもすぐに忘れてもうて、お寺を出て家に帰ったころにはサッパリや」といつも言いますでしょう。全国それは共通しているようですよ。早い人はお寺の戸を開けた時点でもうすっかり忘れている。
それで、北陸にはいい言葉があってね。私はこれが好きなんです。「何を聞いたかわからねど」。ここが好きですね。聞法してね、何を聞いたかわからねど、家に帰って「おばあちゃんお参りしてきた、おじいちゃんお参りしてきた」と。「今日はなんかお話あったん?」と聞くと、「あったと。「どんな話やった」と聞くと、「うん、いい話やった」。「どんないい話やった?」と聞くと、「う~ん、いい話やった」。中身は何も覚えていない。覚えとっても言えない。いい話だったと。「何を聞いたかわからねど、ただ胸に残る六字の名号」。これがね、聞いた証拠だという。これは面白いなと思いましたね。今日はこれとこれを聞いてきましたというのは、何にも聞いていない。今日覚えてきたのはこれとこれを覚えてきたなんていうのは、何も聞いていないというんですよ。そうではなくて、南無阿弥陀仏という名号がきちんと胸に響いておりますと。これが聞いた証拠だと。面白いね。それが面白いんですよね。
仏に近づいていく
教えを聞く耳をいただく。そのお念仏の響きが「胸に残る六字の名号」、こういうかたちで、如来によってお育てをいただくという仏に近づいていくのが浄土真宗です。
私たちが仏と関係を結ぼうというとき、この「お育てをいただく」ではないかたちで求めようとします。例えば親鸞聖人は比叡山で、なんとか仏と自分や衆生の間の関係を結びたいと修行しました。なんとか仏と私との間の関係を結びたい。仏となっていく道です。こういうかたちで親鸞聖人はずっと比叡山で修行されていたんですね。
私もその、「仏陀になりたい」と言うとみんなに笑われますけど、お釈迦さんみたいではなくてもいいから、もうちょっと低いのでいいから、悟りたかったんです。悟りを得たかった。「これでよし」と思える自分になりたかったと言ってもいいですね。とにかく悟れば自分の人生に満足できるだろうと。どんな自分でもその自分を自分として生きられるのが悟りですよね。そうなるには不安や恐れや羞恥心、そういうものから解放されなければならないですね。そういう修行をしていくと、仏に近づいていく。そういうかたちで自分を成就させようと思ったんです。
仏さんに礼拝するのも、自分に礼拝の功徳が付くように、と思っていました。自分が礼拝するということは、本当の仏さんはなんだかわからないけど、仏さんに対して礼拝することによって自分が少しでも仏さんのほうに悟りに近づいていけると思って。そう思いました。
禅宗では、掃除をするのも綺麗にするというだけではなくて、仏道修行としてするんです。ご飯を食べるのも腹を膨らませるためではなくて仏法を聞く耳を養うために食べるんだと。そういうふうに毎回教わりました。だから行住坐臥ぜんぶ修行です。自分の修行にしなさいと。そうするとそういうふうに思ってやるわけですよ。
だけど難しいですよね。進んだのか進まんのか。心の中を見ると、不安、恐れ、虚しさ、寂しさ、孤独。やっていられないと落ち込むわけですよ。その昔、お坊さんが竹やぶに入って掃除をしていたら、石が飛んで、竹に当たってカーンって音がしたら、その時に悟った、と。禅宗にはそういうエピソードがあるんです。そうすると朝の掃除の時にわざと竹やぶに向かって掃いてカンカンあてる。「悟らんなあ、どうしてこれで悟るの?」とかね。そんなのばっかりやっていました。真面目に。自分でもおかしいと思いながらも。ですので、他人事でないと思うわけですよ。
私は真宗に変わって、今度は念仏でこっち(仏・悟り)に行こうと思ったわけです。念仏を仏道としようと思ったわけです。南無阿弥陀仏と言えるようになろうと思ったわけです。「今度は仏にならなくていい、南無阿弥陀仏と自然と出てくる人間になれば南無阿弥陀仏によって救われるんだ」と思いました、はじめは。思いませんでしたか。思った人いますか。(手を挙げる)少ないな。よく聞いていきたいところだけど、時間がないから残念ながらやめておきますけど。
そうすると、念仏することと、仏と自分ということを考えると、どうも離れている。ときどきは「ナンマンダブ、ナンマンダブ…」なんて気持ちも入って、ありがたいというときもあるんですよ。ところが、ほとんどは「ナンマンダブ…」というと白けた感じが出てくるところがある。
うちの実家の方、静岡県の東の方では、念仏している人を見たことがなかったです。外で念仏している人はいないんですよ。親鸞聖人が本当にこの辺りを通ったのかなと思うくらいです。京都に帰るときに箱根を通っていったはずなんだけど、三島には泊まらなかったんじゃないかと思うくらい、念仏がないんですよ。だからそのせいで私は念仏と遠いのかなと思ったこともある。
これは訓練しなければならないと思って念仏ばっかりしていた時期もあります。でも、それも本気でやると3日くらい過ぎると頭痛がしてくるんです。寝ても覚めてもずっと念仏をやってみてください。ご飯を食べてもナンマンダブ、ナンマンダブ。うんちするときもナンマンダブ、ナンマンダブ。お風呂入ってもナンマンダブ、ナンマンダブ。ずっとやって、寝る時も気を失うように寝るまでナンマンダブ、ナンマンダブ。起きたらすぐにナンマンダブ。やったことあります? ない? 3日ほどやったら、頭が痛くて、もうどうしようもない。はじめから「こんなの間違っている」とどこかで思っているので、三日坊主になるという。どうしたらいいのかわからない。こういうかたちでいいのか。
ここに、私と仏という、一つの関係があるんですけど、この関係というのはなかなか成就しない関係なんです。どうしても難しいんです。私がなんとか、自分と仏との関係を成就しようとするとき、ここ(自分と仏の関係)が離れているのは、禅宗だったら修行が足りないからです。真宗だったら信心が足りないからだと、こう思ったわけですよ、私はね。だけど、どうやったら信心がいただけるのか。これもまた難しいです。
親鸞聖人も、20年もの間、仏と自分との関係が開かなかったのでしょう。もちろんその関係の中にすでにあるんです。得度もし、釈の名をもらって、関係の中にありながら、自分の生きる道とはならなかった。
でも、比叡山に20年もいるということは、ときどき彼も「わかった」んですね。しかしその「わかった」と思うことが、また間に合わなくなる。そうすると、非常にやりきれない思いで、聖徳太子のご縁のあるところに篭られたりする。そしてまた気を取り直して、山へ上がっていく。そういうかたちで、ずっと求められたんですね。
私一個の自己実現
どうにかすればどうにかなると思っている私がいるんです。どうにかすれば、なんとかすればなんとかなると思っているんです。人が努力するときというのは、「努力したら効果がある」と思うときに努力すると思いませんか? やってもダメなことをなかなかやらないですね。なかなかやれないですよ。そりゃあ、稀にはありますよ。出来ても出来なくてもやらなきゃというのはありますね。でも、一般に「努力する」と言うときは、努力の結果を見込んで努力するんですよね。なんでもそうですよね。
そうすると、この私というのはなんとかすればもう少しなんとかなる。なんとかなることを見込んで、「今の私」から「なんとかなる私」へ向かって努力しているんですよね。ここには、「今の自分には生ききれないから、生きられる自分になっていけるようにしよう」という、非常に真面目な心があるわけです。今の自分のままでは生きにくいから、努力して生きやすい自分になろうという、そういう非常に真面目な心があるわけです。今の自分のままでは生きにくいから、努力して生きやすい自分になろうという切ない思いがあるわけです。
ところが、これが真面目そうであるけれども、非常に傲慢な姿です。そして、ここで考えられていくのは、私一個の心境です。私一個の、私だけの心境が課題になっていく。
宗教というのは個人の苦しみからしか始まらない。なんで苦しむかというと、私一個の心境というものを考える「私」というものが、もうすでに「私」の中に含まれてしまっているからです。私を問えば問うほど分裂するんです。これはもうどうしようもないです。私を問うている「私」が、「私」自身の中に含まれてしまっているので、問えば問うほどに分裂します。真剣に問うていると、本当に生きにくい。それが宗教のひとつのあり方です。やめるにもやめられず。
親鸞聖人は比叡山を下りて、どうして普通に田畑を耕して暮らさなかったのか。どうして六角堂に籠ってしまったのか。やってもやってもダメなのに。ダメなところにとどまることもできずに、どうしようもなくなって、六角堂に座り込んでしまったんですね。
これがひとつ、私たちが、「私」を出発点として関係を開いていくというあり方です。そして思ったような私になること。自分というものの成就。あるいは自己確立、自己実現。「私となる」ということを目指して。私たちの思いには、こういう基本的な発想があります。ほとんど私たちはこれですね。学びと言ってもいい。経済にしても何にしても、「こういうふうになったらいい」ということを見込んで、計画していくわけです。ここにあるのは変革、自己についていえば自己変革の考え方です。
変身願望
私自身のことですけど、私もお寺の生まれではないので、お寺の生まれの人がちょっと羨ましいことがあるんです。「それじゃあ味わってみろ」と言われるかもしれないけど。小さいときから仏さんにご縁があっていいなって。うちは全然なかったですからね。
だから、得度をするというとき、やっぱりね、ちょっと嬉しかったです。なんでかというと、「変われる」と思ったんですよ。ここから新たな自分を見つけられるように思って、得度式が来るのが楽しみだったですね。得度式の日は、最悪でしたけど。
禅宗の得度は、「お前は仏に帰依するか」って本当に聞かれるのです。私は「はい」というはずだったのに、土壇場になって「うっ」ってなっちゃった。その一年前から、小僧になって、掃除の仕方からお風呂の炊き方からご飯の作り方からいろいろ教わってきて、それから出家です。お母さんもお父さんもお兄さんもみんな呼ばれて、「今日からこの人は出家するから、親が死んでも家には帰れませんから」と、「もう子どもと思うことはやめてください」と言い渡されて、「お前は仏に帰依するか」と言われます。そう言われた時に、得度するつもり満々だったのに「うっ」となってしまった。なぜかと考えたら、仏がわからないから。これから学ぼうとしている仏のことを何も知らないのに、「ハイ」なんて言えなくなって、「うっ」ってなってしまった。しかし、これを言わないと進まないとおもって、嘘だけど「はい」と小さい声で返事して。
要するに私の心にあったのは、変身願望だったんですね。変身願望です、おそらくね。帰敬式で感動するのは、変身願望なんじゃないかなと思う。「変わりたい」「変われるかもしれない」という形で、今の自分からあるべき自分に向かって変わっていく。この発想自体が、人間を出発点とした、人間の思いの中で進んでいくひとつの仏道です。
これを「雑行」、「人間の思いの混ざっている行だ」と親鸞聖人は言われた。この「雑」というのは、「ザツ」という意味ではありません。真剣にやっているんですよ。人間の思いで進んでいく変革思想です。自己を変革し、自己を進歩させていく。そしてあるべき自分に近づいていくという。このような変革思想、進歩思想、発展思想というのが、基本的にいわゆる聖道であり、浄土定散の道です。「それは人間の思いの道だ」と。「雑」は思いが混じっているという意味です。「ザツ」ではないですね。
ちょっと驚くかもしれませんけれど、念仏をもっぱら心にかけてお念仏して浄土に生まれようすることを、親鸞聖人は「雑行」と言います。「ええーっ」と思いませんか? どうですか? これも雑行だと親鸞聖人に言われてしまう。
今回の講義は、一旦これで終わります。