児玉暁洋先生は、2018年に浄土に還帰されましたが、先生との学院での「出逢い」を卒院生の藤谷さんが語ってくださいました。
藤谷知道(1976年卒・大分県)
一九七五年春、私は二十六歳で大谷専修学院に入学しました。高校生の頃から意識(こころ)と身体(からだ)が一つにならず自分自身をもてあまし気味だったのですが、故郷を離れ大学に進むと、そこで待っていたのは七十年安保と連動した全共闘運動でした。私も時代の子として、その巨大な渦に巻き込まれていきました。そして大学を卒業した頃には、生きていく方向も見失い、生きる意欲もわかず、腑抜けの殻のようになっていました。行く当てもなく、しかたなく入学したのが大谷専修学院でした。
ところが大谷専修学院は、そんな私に、「自分とは何者なのか、生きるとはどういうことか、一緒に考えてみよう」と語りかけてくださいました。ことに、信國淳先生が「歎異抄講義」で、人間の「自我意識」に光を当て、その無明性、その罪業性を繰り返し巻き返し解き明かしてくださいました。おかげで、少しずつではありますが、病める自分の正体が見えてきて、自分の未来に明るい光がともった感じになりました。ところが、その病を癒やすという、肝心要の阿弥陀如来のことになると、全くと言っていいほど判らないのです。
同じことが、親鸞聖人についてもおこりました。「機の深信」と言われる、わが身についての深い洞察に「そうか!」とうなずきながらも、あるいは、親鸞聖人の歩まれた生き様に感動しながらも、そのもとにある、阿弥陀仏の本願への帰依となると、霞の彼方の遠い話になってしまうのでした。
そんな私に救いの手を差しのべてくださったのが児玉暁洋先生の講義でした。児玉先生は、阿弥陀如来といい浄土ということが人間のいかなる課題に応えたものかを、釈尊の時代から現代に至るまで時代を超えた課題として、あるいは洋の東西を超えた人間の普遍的な課題として、明晰に説き教えてくださいました。おかげで、親鸞聖人の開顕された浄土真宗とは、単なる個人的な心の持ちよう(信仰)ではなく、人間の苦悩と悲しみに応えようとする人類の思想史の最先端の教えであることが判りました。
今から思えば、私にとって児玉先生は、親鸞聖人の教えを学ぶにあたっての羅針盤でありました。
また、児玉先生は阿弥陀如来の「摂取不捨」を体現された慈愛あふれる先生でした。先にも触れたように、学院に入学した頃の私は、朝起き、共に学び、夜はやすらかに眠るという、ごく当たり前の生活ができませんでした。それは職員となってからも続き、いつも身体は重く、学びの場を汚すばかりでしたが、児玉先生はそのことにふれず、温かな眼差しで人間の課題を一緒に考えていこうと、お誘いくださるばかりでありました。
結局、学院での生活は八年で終えることになりましたが、それから三十余年たった今も、児玉先生は仏法を学ぶにあたっての羅針盤であってくださいます。また、相も変わらずふしだらな生活しかできないこんな私を、今も見捨てることなく、温かな眼差しで人間の課題を一緒に考えていこうとお勧めくださっています。南無阿弥陀仏。
児玉暁洋先生、有り難うございました。
与えられたこの命を粗末にせず、人間の課題を念仏の教えに聞いてまいります。