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大谷専修学院

大谷専修学院

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学院概要

「青草碑」

▲岡崎学舎跡地にある信國淳元学院長の言葉を刻んだ「青草碑」

 

大谷専修学院の概要

創立:1924(大正13)年
専修認可:1958(昭和33)年
教職員数:16名(2018年度)
学校の特色:全寮制
資格取得:大谷派教師資格
学院長:狐野 秀存(1948[昭和23]年生)

 

前院長 竹中智秀師のことば
大谷専修学院のモットー
前院長 竹中智秀師のことば


 

学院長の言葉

「えらばず、きらわず、見すてず」の学校
~ 学院の合言葉 ~

学院長 狐野 秀存(この・しゅうぞん)

学院長 狐野 秀存 大谷専修学院は念仏の学校です。「南無阿弥陀仏」という念仏のこころが学院を成り立たせ、また皆さんを学院生として迎えています。その「南無阿弥陀仏」の念仏のこころを表す学院独自の合言葉がいくつかあります。

 第一の合言葉は前学院長の竹中智秀(たけなか・ちしゅう/1932―2006)先生が教えてくださった「えらばず、きらわず、見すてず」という言葉です。専修学院は「えらばず、きらわず、見すてず」の学校だということです。そして私はその竹中先生が教えてくださった「えらばず、きらわず、見すてず」の如来の摂取不捨の呼びかけに応えるためにさらに三つの合言葉をつけ加えたいと思っています。

 私どもの学院生活の合言葉です。

一つは「ここにいていい」という言葉です。
二つは「私の話を聞いてくれる人がいる」という言葉です。
三つは「私はあなたが見える」という言葉です。

 「えらばず、きらわず、見すてず」の呼びかけの合言葉に応えて、この三つの生活の合言葉を心にたもちながら共に学んでいきたいと思います。

 大谷専修学院が『歎異抄』を学びの中心にしているのは学祖信國淳(のぶくに・あつし/1904―1980)先生からの伝統があるからです。1958(昭和33)年の秋に信國先生は専修学院の学院長に赴任されました。学院に集う青年仏教徒たちに顔をあげ、まっすぐに前を見て自分自身の人生を歩む道をひらいてほしいという宗門の願いに応えて九州の大分県から二十年ぶりに京都へ戻ってこられました。何か一つ親鸞聖人の教えに触れる聖教を読んでほしいという要請があって先生がはじめに取り上げられのが『歎異抄』でした。それというのも先生にとって『歎異抄』は人生を共に歩んできた書物だったからです。先生が親元から離れて東京の大学へ行かれるとき、お父さんが黙って『真宗聖典』を手渡されました。その『聖典』の『歎異抄』の部分が、お父さんが一文字一文字指でなぞるように繰り返し読まれた手沢の跡で黒ずんでいたということです。それ以来、先生は折に触れて『歎異抄』を開き見て『歎異抄』の言葉に教えられる生活を送ってきたのです。それで学院での授業もまず『歎異抄』を取り上げられました。

 『歎異抄』は親鸞聖人滅後、弟子の唯円が「先師の口伝の真信」の「耳の底に留まるところ」を記したものだといわれています。そういう意味で『歎異抄』は何よりも「信仰の書」であるということです。しかも前半の口伝篇は弟子たちが念仏の信心について座談をしている中に聖人も参加して話されたと思われる言葉が綴られています。聖人が筆を執って書かれた『教行信証』をはじめとする和漢の聖教類と異なって生活の中での話し言葉を整理したものです。つまり『歎異抄』は「信仰の書」であり、そのまま「生活の書」であるということです。

 私どももまた、これからの学院生活を通して「えらばず、きらわず、見すてず」の如来の声なき声の呼びかけに耳を澄ませながら「ここにいてもいい」ということを、「私の話を聞いてくれる人がいる」ということを、「私はあなたが見える」ということを『歎異抄』に学んでいきたいと思います。

 

大谷専修学院の教育方針

「いやしくも、この学院に於いて、先生が生徒を教えるようなことがあってはならない」(信國 淳)

信國 淳 元学院長(1904-1980)
信國 淳 元学院長(1904-1980)

 学院の教育は、私たちが新しく仏教徒として立ちあがるために行われるものです。大谷専修学院には、私たちの自他に等しく与えられた実り豊かな人生を、仏の教えに順(した)がって見開かなけえればならないという、一つの願いがあります。
 生活に必要な知識や技術を習得するということは、むろん私たちに欠くことのできない大切なことであり、その機会を与えることが、一般には、教育だというふうに考えられがちです。

 しかし、ただ知識や技術を習得するだけで、それらを底支えする、広い視野と深い愛情とが培われるのでないならば、私たちはいったいどんな人間になるのでしょうか。

 おそらく自分でそれとは気づかないまま、あらゆる面で自我意識の虜(とりこ)になった、憐れな人間になっていくのではないでしょうか。そしてそのような人間として、ただ自我意識の
立場から人生を捉えるだけであるならば、私たちの人生というものも、結局極めて限られた、非常に貧しく、
醜いものになることは免れないでしょう。
 仏教はそうした私たちのため、本当の人生というものを、つまり、自他に等しく実り豊かに生きることの
できる、真実の人生を私たちに見開かせる教えです。そして学院における教育は、まさにその教えに
向かって自らを献げようという願いのもとに行われるのです。

 そうした願いから大谷専修学院では、「人間が人間を教育できるとする人間中心の教育観によることなく、
真実の働きである人間教育が私たちの帰すべきまことの教育として、自然(じねん)に行われるものでなければ
ならない」とし、その具体相を『呼応(こおう)の教育』と名付け、その願いを実現するためにも、
「教職員と学生とが本尊を中心とした聞法・学習・生活を共にする」共同生活を実施するものです。

 教職員・学生といっても、大谷専修学院でのその関係は、阿弥陀如来のもとにお互いに兄弟であることが
望まれます。そういった在り方を「ブラザー・システム」と呼びます。
 私たちの共同生活は、そのようなブラザー・システムを根幹とし、その「呼応の教育」が具体化される
ものでなければなりません。

 私たちはその中で、仏の教えを通して各自の問題を明らかにし、また心うちとけて悩みを語り合えるまでに、
相互の信頼と友情を深めていきたいのです。

 

大谷専修学院の沿革

1924(大正13)年4月1日:京都府京都市東山区今熊野にある大谷中学校の敷地内に開校。

1941(昭和16)年:大谷中学校に併設されていた校舎を、下京区高倉六条の地に移し、
 「大谷専修学院」と改称。

1958(昭和33)年:学院長として、信國淳先生着任。
 《学寮・食堂・教室》という3つの生活を中心に据えた「全寮制」とし、
 親鸞聖人の教えを生活の中で学ぶ学院の現在の形を作る。
 同年12月10日 学院の機関紙『願生』創刊。

1962(昭和37)年8月4日:親鸞聖人700回御遠忌事業として、真宗大谷派岡崎別院
 (左京区岡崎天王町)の境内地に新校舎が完成し、記念式典開催。

旧.岡崎学舎
旧.岡崎学舎
旧.山科学舎
旧.山科学舎
1981(昭和61)年4月13日:入学希望者の増加により、真宗大谷派山科別院(山科区竹鼻サイカシ町)
 境内地に「山科学舎」完成し、入学式を行う。
 この年から「岡崎学舎」「山科学舎」という2つの校舎での体制となる。

2016(平成28)年:岡崎学舎・山科学舎の老朽化等により、岡崎学舎を廃止、取り壊し。
 山科学舎を新たに建設し、さらに「呼応の教育」を進める。

現在の大谷専修学院(山科)
現在の大谷専修学院(山科)


 


「大谷専修学院」:
〒607-8087 京都市山科区竹鼻サイカシ町13-17
電話:075-501-5888


 

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親鸞聖人像(熊皮の御影)

親鸞聖人

東本願寺

東本願寺

「青草びとの会」

大谷専修学院同窓生学習会「青草びとの会」

児玉暁洋選集

児玉暁洋選集
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児玉暁洋先生との「出逢い」

児玉暁洋先生は、2018年に浄土に還帰されましたが、先生との学院での「出逢い」を卒院生が語ってくださいました。(画像をクリック)
「有難き哉」藤谷知道(1975年卒・大分県)

溪内弘惠先生との「出逢い」

溪内弘惠先生は、2017年に浄土に還帰されましたが、先生との学院での「出逢い」を卒院生が語ってくださいました。(画像をクリック)
「場」髙桒敬和(1988年卒・富山県)

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