大谷専修学院は全寮制です。(学院が認めるもの以外の帰省・外泊はできません。)
学院生10名ほどと教職員1名で「班」を作り、基本的に班単位で学院・学寮生活を送ります。
1.学寮
大谷専修学院にはいくつか学寮があり、学舎も含めて修練の道場であるところから、これを総称して「本願寺修練舎」と呼びます。
2.生活規律
学寮は、教職員と学院生が生活を共にする学びの場であり、ブラザー・システムに基づいて、友愛にみちた規律ある生活が行われるところです。
起床・清掃・外出・学習・門限・就寝等については、定められた規律を厳守して、自主・自立・自律的な生活を身につけるようにしてください。そのため、寮内でのゲーム・かけごと・飲酒は禁止します。
3.寮当番
学院生は班ごとに当番を定めて、その日の寮生活の全般について責任者となります。当番にあたった学院生は一日の生活所感を日誌に記入します。
4.ミーティング
週二回、班ごとにミーティングがもたれます。
火曙日は、月曙日の「歎異抄講義」を受けてその内容が深められていきます。木曙日は、生活全般について討議し合い、共に学ぶ私たちの生活を常に新鮮で活気の溢れたものにしていきます。また必要に応じて臨時ミーティングを行います。
5.学習と就寝
夜は静かにし、お互いの学習を乱さないように心がけましょう。一日の疲れをとり、明日の活動に備える睡眠時間は、共同生活にあっては特に注意し、お互いに大事にし合いましょう。
6.部屋の交替
お互いの交わりを深めていく共同生活の中で、班交替・部屋交替(寮交替)をすることがあります。
7.各学寮の外観
すべて京都府京都市山科区
■学寮生活をしていく上での留息点
● 部屋は12~16畳の和室で2人以上の共同生活のため、身の回り品は最小限度にすること。 |
■卒院生に聞く:学院での生活について
学院での生活について、ある卒業生Aさんに、インタビューしました。
Q. 大谷専修学院での生活は相当厳しいようですが、お聞かせ下さい。
A. そうですね、毎日の日程は、だいたい、朝6時:起床・洗面・清掃、7時:登院・朝のお勤め・清掃、8時:朝食。9時から3コマの講義、午後0時:昼食、1時から2コマの講義、3時から週に2回:習字と生け花、5時まで自由時間、5時:夕のお勤め、6時:夕食、10時まで自由時間、その間に入浴、過に2回(火・木)班別ミーティング(7時~9時)、10時門限、11時:消灯です.
週に一日、完全オフの日があります。
Q. やっぱり大変そうですね。
A. そうでもないですよ。夜の自由時問には、飲みにも出られますし、オフの日は、ハイキングとかに出かけていました。僕なんかは、会社員を経験してから来ましたので、ゆったりしたものでした。陽の高い内からお風呂に入ったりして、そんなことはサラリーマンでは考えられないことですから。
Q. 門限とかスマホを持ち込めないとか、今の若者にはしんどいのではないですか。
A. お釈迦さまの教団にも、「戒律」という、今で言う「生活規則」がありました。佛道修行の場ですから、ある程度の「規則」は当然でしょう。「遊び」の学生生活とは違います。
普通の我々は「世間の常識」をたっぷりと「自己の内実化」して生きています、その事実に気づき、それを相対化して観る「真実の眼」を戴くのは、並大抵な事ではありません。 「佛教の知識」を得るのなら、普段の生活でも可能でしょうが、日常の心では、とても気づき難い「真実の眼」を賜るのには、普段の生活のままでは不可能でしょう。
学院生活は、「真実の佛道」に触れる目的を持った「修行生活」ですから。
Q. でも「浄土真宗」は「修行」はしないのではないですか。
A. それこそ生半可な知識です。親鸞さんも比叡山で9歳から29歳まで、厳しい修行生活をなさいました。もちろん「それではダメだ」と気づかれて、山を下りられた訳で、それで、今の僕らは「修行は不要」と言っているのです。
確かに、滝に打たれるとかいった、肉体的な「修行」は不要でしょうし、何者か善いものに成ろうとする「修行」は不要ですが、自分自身の真の姿に気づくには、普段の生活のままでは難しいということです。
何らかの「修養的体験」が必須であるということです。
Q. でもお~…。
A. 大谷専修学院の「規則」は、ただ守っていればいいというものではありません。それなら単なる「強制」。「他律的」で、佛教の願うところではありません。そうではなく、それぞれの「自主・自立・自律」する生活態度を養うために在る「規則」なのです。
私の経験ですが、「門限午後10時」という規則に対して、午後10時の点呼を受けた後、午前0時を過ぎ、翌日になってから外出した猛者がおられました。「寮では飲酒禁止」に対して、窓から身体を乗り出して酒を飲んだ奴もいました。単なる「屁理屈」でしょうか。
私の班担で、よく学生を連れて呑みに出る先生かおられ、まま門限を破っては、先輩の先生に叱られ、翌朝、罰の便所掃除をされていました(笑)。
親鸞は「破戒僧」ですが、「戒」が無ければ「破戒」も成り立ちません。
要は、その「規則」を、それぞれが自分の問題として受け止め、どのような「生活態度」をとるのかを選んでいくということが大切なのです。「規則が厳しいからイヤだ」などという姿勢は、まさに「他律的」な生き方と言えるのではないでしょうか。